クリエイターと普通のひと

たまたま、隣家の人と話をする機会があった。私は自宅居住の独身者なので、近所付き合いもどちらかといえば親任せで、隣の家といえども話をする機会などめったにない。
このときは、隣家で育てている植物の種がうまく取れないので、こちらの敷地から取らせて欲しいということだった。我が家は団地にあって、敷地がぴったり両隣とくっついている。坂道に面しているので、隣の家の敷地より我が家の敷地の方が高い位置にあるのだ。とくに拒否する理由もないので、何の気なしに良いですよ、とは言ったものの、彼女を庭に残したまま引っ込むわけにも行かず、どうにも間が持たない。こんなときに限って親は出かけているし、数年前から虫と戦うのが嫌になって庭弄りに参加していないものだから、何か訊かれても答えられない。
それにしたって、秩序のない庭だと思う。どう見ても褒めようがないような気がする。うちの父の庭造りというのは、ブームの連続みたいなものである。同じもの(できるだけ安いもの)を山のように植え、時期が終わると一気に撤去、そのあとにまた別のものを植える、ということの繰り返しなのだ。しかも、隣に植わっている植物とのバランスやら見栄えやらは、あまり考えたこともない様子。挿し木でやたらに増やした薄いピンクの薔薇の木が点在する中に、きぬさやのつるが伸びたり、パンジーが一列に並んだり、ローズマリーが1株だけあったり、すずらんが群生(自然に増えたもので、花が咲かなくなったので既に撤去されてしまった)しており、そのまわりをザックリ頭を伐られたカイヅカイブキが囲んでいる庭というものを、あなたは想像できるだろうか。つまりは、ただ植物が生えているというだけの雑な庭だ。そんなものを褒めさせてしまって、しかもなんとも答えられないというのは、恐縮の限りである。
それはそれとして、どうやら私は隣家のひとには「パソコンができるひと」だと思われているらしい。使えなくはないけど、わたしだってそんな大したものではないのだが……。ホームページを作ったりすると、なにか儲かるのかということを訊かれたので、全然そんなことはないと答えておいた。何のためにホームページを作るのかが分からないらしい。日記を公開したり、自作の絵や文章を公開したり、趣味について書いたりするんですよというと、世の中には変わった人がいるんだなぁとでもいうような反応であった。
「それで、ホームページに載せている絵を見るのにお金がいるの?」と訊かれたものだから、普通はお金は要らないですよー、と言うと「それで、ホームページに載せるとその人にはどんなメリットがあるの?」とマジに訊かれてしまってびっくりした。そんなもの、自分の感覚からしたら「載せたいから載せている」だけのことなんで、メリットも何もありゃしないんだけれども。つまり、彼女はホームページを作ってまで、絵を公開したり文章を公開したりしたいという感覚とは無縁の人なのだ。自分は書くことはあまりしていないが、どんな文章を書くときでも読み手のことを意識しないことはないし、書いたら公開できるかどうかをまず考える。そして、問題がなかったら、深く考えずにオンラインの日記などに載せてしまう。それが普通の感覚になって久しい。
しかし、それはつまりオンラインの創作文芸のあたりをトロトロといつも漂っている人間の感覚なわけで、普通のひと、というのは案外そうでもなかったりする。昔、友人に自作の文章を見せようとしたら、ものはどうあれ書いただけで素晴らしい、というような反応にびっくりして、それ以来、友人にはあまり見せていない。義理で褒めなきゃならないなんて苦痛を友人に味わわせては、あまりに申し訳ないではないか。少し反省しているのだ。モノが、今考えればちょっと何とも言いようのないモノだっただけに。そうでなくても文章を読むのが苦痛だという人はいくらでもいる。だから、知人にはなるべく自分の文章を見せないように心配りをしている。たぶん、かなり迷惑だろう。
まあ、そんなわけで普通の感覚を忘れていたなぁ、と反省の意を強くした次第である。小説書けたって、別に偉いわけじゃないからね。本当に面白かったりすごい作品を書くひとがいたら、私は尊敬するけれども、それは単に私の基準に過ぎないのだ。