才能

あるテレビ番組で、一般の人をたくさん呼んで、その人たちに4択で質問して、一番多い答えを当てるっていうのがあった。
そこで、「生まれ変わったらどうなりたいか」という質問の答えで「お金」「顔」「別の性別」を押さえて多かったのが「もっと才能のある人間になりたい」だった、というのがすごく印象に残ったということがある。
きのう、テレビを見ていて、それをふうっと思い出した。「デジスタ」を見ていたんですよ。昨年の優秀作品を集めたAWARDの裏、みたいな内容でした。この番組は、毎回、事前に発表されている「キュレーター」という活躍中のアーティストあてに、一般の、アーティストを目指す人たちが自分で作ったデジタル作品を送りつけて、そのキュレーターがその中で気に入ったものを選んで、それを発表するという番組なのです。私はこれをみるのが何となく好きなんです。時間が合ったときしか見てないんですけどね。
そのなかで、作品を選んでもらった人がキュレーターに会ったりとかする楽屋裏の話なんかをやっていまして。画家志望の人が、キュレーターの人にきっぱり言われていたのが印象的でした。「あなたには才能がある。だけど、才能のある人はたくさんいる」って。その才能をどこで見せていくかをしっかり決めなきゃいけない、そういうところにあなたは来ているんだ、とかそんなような事を言っていたんですよね。(微妙に台詞がうろ覚えですが。)変に納得してしまって。ああそうだなって。
自分はこれで行くっていう何かがないと、一流になれないんだろうなっていうかんじがするんですよね。自分の強みを知っていることとか、強みをさらに良くするために努力することとかが出来るかどうかで違うんじゃないかな。才能を開花させるには、それに見合った、適切な努力が必要なんですよきっと。
昨日読んだばっかりの、「のだめ」もそういう目で見るとまた違って見えるんじゃないかなぁと思うんだけど。
演奏家として、最終的に必要とされてくるのは感性なんだろうと思うのだけれども、演奏家に必要なのはそれだけじゃないですよね。演奏家というのは楽譜の中に眠っている音楽を呼び覚まし、よみがえらせることが出来なきゃいけない。それに必要なのは、まずは実現するための技術、楽譜を読み解くための知識や解釈できる理解力(こういうのがある人は造詣が深いっていうんだよね)で、最後になって感性が問題となるわけです。もちろん知識や技術を取り込むことばっかりで感性が消えてしまってはいけないわけですけれども、基礎のところがなければ、時々良かったにしても最低限のラインは超えられないわけですよ。のだめちゃんは、現状では感性に頼ってやってきているわけで、実に危なっかしい状態なわけです。千秋は、楽譜から音楽の……なんていうですかね、精髄? を読み取る方法をある程度は理論として知っていて、それを知れば音楽の世界がどんなに広がるかを知っているだけにもどかしい気分を味わっている。そうして、その感性が深い理解の元に発揮されれば、もっと素晴らしい音楽を目の当たりに出来るのじゃないか、その可能性をむざむざ捨てるなんて勿体ないと考えているんじゃないかなぁなんて、愚考するわけですけど。
そういえば、漫画で「SWAN」というのがありますよね。ああいうのをみると、実に表現というのを考えさせられますね。演奏家も舞踏家も似たところがあるのかもしれません。まず才能が垣間見える不安定な状態で始まり、基礎の身体を作る部分、技術をつけるという課題、理論だとか解釈での悩み、精神的な問題の克服、パートナーとの人間関係、表現する主体としての自己の確立、という葛藤を経ていったん完成にいたり、そのあとに、完成した表現のスタイルが崩れ、まったく白紙にいったん戻った後、新たな感性の世界にという構造をしているのですが。こういう部分って、なんというか表現のジャンルを超えた普遍性がある感じがしますね。
しかし、何と言いますか、才能と付き合うのって大変そうですね。どうも気分としては他人事の世界だなぁ。私はなくていいや。努力するの苦手だし。